2016年のピアノと娘。
「今年はもう少し難しいコンクールに出たいですって言って来た」
先週ピアノから帰ってきた娘にレッスンはどうだったかと聞いたらこう答えた。
(まだグレンツェンの通知を貰う前です)
いや、待て待て待て。
今年もコンクールに出るかどうか。
まずはそこからママと相談しようと以前話していたよね?
しかも、
これから色々な事に忙しくなるだろうし、
出来るならもうコンクールには出ずに、
舞台発表の出来る場を増やしていけばママはいいと思うと話したよね?
それら全ての事に頷いておいて、
それでも全部すっ飛ばした娘の発言にビックリしたのは私だ。
娘は言う。
発表会じゃない、
コンクールに出たいのだと。
ほんの2年前は舞台の上に立つのもイヤがる程に人前でピアノを弾きたがらなかった娘が、
今は止めておけばと言う私をよそに、
勝手にコンクールに出たいと先生に直訴申し上げる。
この変化はいかほどか。
いいかい、娘よ。
お家の環境や練習時間や、ママの知識不足や、
その他色んな事を考えた時に、
やっぱりアナタが名のあるコンクールで名を残す事は難しいと思うの。
今はそれなりにちやほやしてくれる賞を取れてご満悦かもしれないけれど、
絶対いつかやってもやってもどんな褒章もない日々が待っているんだよ。
賞を取りたいからコンクールに出るより、
拍手を貰いたいから発表会の機会を増やしていった方が、
アナタの人生には合っているのではないかい?
「でもママ、わたしは聞いてもらいたいんだよ」
「発表会は沢山の人が聞いてくれるよ。おじいちゃんもおばあちゃんも来て、喜んでくれる」
「うん、でもママ。ちゃんと聞いて欲しいの」
その「ちゃんと」の意味が、
音楽を理解した人に評価を貰いたいということだと言う事はすぐにわかった。
勿論、おじいちゃんおばあちゃんに貰う拍手も嬉しいだろう。
が、娘はそれなりの道の人に、
自分の細心の注意を払って弾く曲を聴いて欲しいのだと言う。
「でもね、これからはきっと、おいそれとは誰も褒めてくれないよ。そういう時間が続くと、苦しいよ」
「うん、わかってる」
わかっていないだろう!
そう思ったし、
そんな苦しい中で希望を失って止めると言う事がどれだけの挫折感か、
彼女はまだ知らない。
けれど、
あの特大の緊張感を伴う舞台の上で、
堂々とした笑顔で挨拶をする娘を見た時に、
「あぁ、この子はこんなにも変身したのか」
と思ったのも事実だ。
最近は大きな舞台になればなる程、
楽しそうに弾く娘を感じていたのも事実だ。
ピアニストを目指してはいないからコンクールは意味がない。
楽しく弾ければ勝ち負けになんてこだわる必要はない。
本当にそうなのだろうか?
出来る出来ないは行動の理由にはならない。
勝てるから、賞を貰えるからそれをやって、
これは勝ち目がないと思うから回避するの?
それは違う。
ただやりたい。
その一心ではいけないのだろうか。
正しく音符一つ一つを理解して、
作曲家の時代背景を考えて、
そういう細かい一つ一つを気をつけると、
とんでもなく素敵な音色が出る事を娘は知った。
それをもっともっと、
飽きるまで追求してみたい。
その為のコンクールだとしたら、
ただそれだけで良いのではないか?
先生は、
「今年はどうするの? 」
と聞いてくれたらしい。
それはつまり、
今年も協力してくれるということなのだと思う。
娘の努力を、ちゃんとかってくれるということなのだろう。
それならば、
部外者の私が口を挟むことはないのかもしれない。
もっともっと綺麗に弾きたいと自分で望むようになった娘を、
私も応援してあげる事にしようと思う。
そんな出来事でした。